北方領土:近くて遠い、択捉島

択捉島の鳥瞰図を作った。Sentinel-2の観測データを、国土地理院ならぬ地形データに貼り付けて斜め上から眺めた一枚だ。北方領土シリーズの第一弾として、まず島がいちばん大きい択捉島から始める。

Sentinel-2 L2Aの観測データと地形データで作成した択捉島の鳥瞰図。東西に細長い島の輪郭と、山頂付近の雲・残雪が見える
【図1】択捉島の鳥瞰図(Sentinel-2 L2A 10mネイティブ解像度、2026年7月〜8月合成)

まず、この島の形を見てほしい

南北に細長いのではなく、東西に約200kmも伸びる、異様に長い島だ。北方領土(歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島)の中で最大の面積(約3,182km²)を持ち、日本の島としても本土四島(北海道・本州・四国・九州)と沖縄本島を除けば最大級になる。

画像の中央から右にかけて白く光る部分は雲と、山頂付近の残雪だ。択捉島には標高1,500m級の火山が7つ連なっており、まっすぐな海岸線ではなく、くびれと岬がいくつも続く複雑な輪郭になっている。この「くびれ」の一つが、後で書く単冠湾(ひとかっぷわん)だ。

この島は今、ロシアの実効支配下にある。日本人は自由に訪れることができない。近くて遠い、というより、近いのに行けない島だ。なぜそうなったのか、江戸時代まで遡って追ってみる。

事の始まりは、江戸時代

択捉島に日本人が本格的に関わり始めたのは、18世紀末のことだ。当時、ロシアの南下政策への警戒感が江戸幕府の中で強まっていた。

1798年(寛政10年)、幕府は近藤重蔵・最上徳内らを蝦夷地に派遣した。二人は択捉島に渡り、島の南端(丹根萌)に「大日本恵登呂府」と刻んだ標柱を、アイヌの長老(エカシ)の同意を得たうえで建てた。ロシアの影響下に置かれることを牽制するための、いわば国境標識だった(2年後の1800年には島の北端・カモイワッカ岬にも二本目が建てられている)。

同じ頃、活躍したのが廻船問屋の高田屋嘉兵衛だ。1799年、それまで海流が速く航海の難所とされていた国後島—択捉島間の航路開拓に成功し、1801年には幕府から「蝦夷地御用船頭」を命じられている。嘉兵衛は択捉島での漁場開発(場所請負制)を主導し、島の経済的な基盤を作った人物でもある。

1811年には、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴロヴニンが国後島で日本側に捕縛される「ゴローニン事件」が起きる。翌年、報復として副艦長リコルドが嘉兵衛の船を拿捕しカムチャツカへ連行するが、嘉兵衛はそこで粘り強くリコルドと交渉し、最終的にゴロヴニンの釈放と日露双方の和解にこぎつけた。一介の商人が外交の当事者になった、異例の事件だった。

こうした経緯を経て、1855年(安政元年)、日本とロシアは日魯通好条約(日露和親条約)を結ぶ。ここで両国は、択捉島とウルップ島の間に国境線を引くことで合意した。択捉島は日本領、ウルップ島以北の千島列島はロシア領、という区分けである。これが北方領土問題の出発点になる「最初の国境画定」だ。江戸幕府と帝政ロシアが、話し合いで平和的に国境を決めた、という事実は今も日本政府の主張の根拠になっている。

開拓の時代、そして開戦前夜

明治以降、択捉島は日本領として本格的に開拓が進む。紗那村・留別村などの集落が形成され、周辺海域の豊かな漁場を背景に、漁業と缶詰製造業が島の主産業として発展した。昭和初期には島内に複数の缶詰工場が操業し、サケ・マス・カニなどの水産加工が行われていたという記録が残る。

そして太平洋戦争の開戦直前、択捉島は世界史の舞台になる。島の中央部、太平洋側に開けた単冠湾(ひとかっぷわん)は、冬でも凍らない天然の良港だった。1941年11月、真珠湾攻撃に向かう日本海軍の機動部隊(空母「赤城」「加賀」など空母6隻を含む艦艇約30隻)が、この単冠湾に極秘裏に集結した。人目につきにくい北方の入り江という地理的条件が、作戦の秘匿に選ばれた理由だった。11月26日、艦隊はここからハワイへ向けて出撃している。

つまり択捉島は、日本が太平洋戦争へ突き進んだ、その最初の一歩が踏み出された場所でもある。

1945年8月、二週間の逆転

1945年2月のヤルタ会談で、米英ソの首脳は秘密裏に「ヤルタ協定」を結んでいた。ソ連の対日参戦の見返りとして、千島列島をソ連に引き渡すことが取り決められていたのである。当事者である日本には一切知らされていなかった。

8月8日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦。8月15日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏した後も、戦闘は終わらなかった。8月18日未明、ソ連軍は千島列島最北端の占守島(しゅむしゅとう)を先制攻撃する。占守島の戦いは8月21日まで続き、日本側守備隊はソ連軍を足止めしたものの、最終的に停戦・降伏に至った。

ソ連軍はその後、島づたいに南下を続けた。8月31日までに千島列島南部の得撫島(うるっぷとう)までを占領。そして別働隊が、すでに不法占拠していた南樺太の大泊から出撃し、8月28日に択捉島の留別へ上陸した。9月1日から5日にかけては国後島・色丹島・歯舞群島も次々に占領され、北方四島すべてがソ連の実効支配下に入った。日本の降伏から、わずか2週間あまりの出来事だった。

当時、択捉島を含む北方四島には約1万7千人の日本人が住んでいた。ソ連軍の占領直後、住民の半数近くは自力で島を脱出したとされる。残った住民は、ソ連が1946年に四島を一方的に自国領へ「編入」した後も生活を続けていたが、1947年から1948年にかけて強制退去を命じられ、サハリンでの抑留生活を経て函館へ送還された。最も早い引き揚げは1947年7月、最後は1949年7月という記録もある。2025年に日本政府が行った名簿調査では、この強制退去者は約8,800人と確認されている。

生まれ育った島を、着の身着のままで追われた人々がいた、という事実は、今も北方領土問題の根底にある。

冷戦の最前線になった島

戦後、択捉島はソ連(のちロシア)の実効支配下で軍事拠点化が進んでいく。特に転機になったのが1978年だ。この年の夏頃から、ソ連は国後島・択捉島に新たな地上部隊と軍事施設の配備を開始した。同年5月には、両島の防衛を目的とする第18機関銃・砲兵師団がハバロフスク近郊で編成されている。この時期はカムチャッカ半島への戦略核潜水艦(SSBN)配備ともほぼ同時期であり、北方領土の軍事化が極東における核戦略と連動していたことがうかがえる。

ソ連崩壊、開かれかけた窓

1991年4月、ゴルバチョフ大統領が来日し、日ソ共同声明でソ連は初めて文書上、北方四島の名前を明記し「領土画定問題」の存在を認めた。同年末にソ連が崩壊し、新生ロシアが誕生すると、日本にとって「75年間なかった好機」とも言われる交渉の窓が一瞬開いた。スターリン外交を否定する新政権が、NATO加盟すら模索していた時期である。

しかし、この窓はすぐに閉じてしまう。市場経済化によるハイパーインフレでロシア国内は混乱し、エリツィン大統領への保守派の攻撃が強まった。1992年9月に予定されていた来日は直前で中止され、交渉の機運はしぼんでいった。領土問題が動く最大のチャンスは、ロシア国内政治の混乱に飲み込まれて失われた。

そして現在――基地の島

21世紀に入り、択捉島の軍事拠点としての性格はむしろ強まっている。

2014年、島の中心集落・紗那近くに滑走路2,300mのイトゥルップ空港が完成し(2015年に「ヤースヌイ空港」に改称)、サハリン(ユジノサハリンスク)との定期便が就航した。2018年1月にはこの空港が軍民共用化され、同年8月にはSu-35S戦闘機3機が配備されている。民間空港として作られた施設が、数年のうちに軍事拠点にもなった格好だ。

さらに2016年、択捉島と国後島には地対艦ミサイルシステム「バスチオン」「バル」が配備された。日本の防衛省「令和6年版防衛白書」によれば、択捉島のゴリャチエ・クリュチ(瀬石温泉)には前述の第18機関銃・砲兵師団の司令部が置かれ、国後島とあわせて約3,500人規模の部隊が駐屯している。近年は最新鋭の防空ミサイルシステム「S-300V4」の配備も確認され、基地インフラの近代化が段階的に進められてきた。2026年8月には、プーチン大統領が16年ぶりに択捉島を直接訪問している。

一方で、島の経済開発も並行して進められている。「クリル諸島社会経済発展計画」という連邦特定目的プログラムのもと、総投資額250億ルーブル規模の水産加工場・養殖場や、ホテル総数430軒増を見込む観光インフラ整備が計画された。ただしロシア経済の停滞により、2020年までの前半5年間で執行された予算のうち連邦予算からの支出は12%にとどまったとも報じられており、計画通りには進んでいないのが実情のようだ。地元メディアでは、島の経済が特定の水産財閥企業に強く依存している「企業城下町」的な構造も指摘されている。

択捉島の自然

軍事と政治の話が続いたが、島そのものの自然は豊かだ。標高1,500m級の活火山が7つ連なり、島最高峰は単冠山と呼ばれる山塊の一部、西単冠山(1,629m)。沼や湖も多く、火山性の変化に富んだ地形が島を貫いている。鳥瞰図の中央付近に見える白い部分は、こうした山々にかかる雲や残雪だ。

気候は北方特有の冷涼な海洋性気候で、夏でも霧や雲が発生しやすい。今回の鳥瞰図もSentinel-2の2か月分の観測を合成してようやく雲の少ない1枚に仕上げたもので、この島が年間を通じて晴天に恵まれにくいことを物語っている。

今も暮らす人々、通えない私たち

現在、択捉島には約6,900人(2023年時点)が暮らしている。その大半はロシア人を中心としたスラブ系住民で、中心集落クリリスク(旧・紗那、人口約2,537人)を核に生活している。かつての日本人集落の面影は、開発が進むにつれ薄れつつあるとも報じられている。

日本人にとって、択捉島は今も自由に訪れることのできない島だ。唯一の接点は、1964年に始まった墓参や、1992年から始まった「北方四島交流事業(ビザなし交流)」、1999年からの「自由訪問」といった枠組みに限られる。いずれも元島民とその家族、関係者が対象の、厳密に管理された往来であり、一般の観光客が気軽に渡航できるわけではない。しかも、かつて島を追われた元島民の平均年齢はすでに90歳を超えている。故郷への扉が、細く開いたまま、閉じようとしている。

まとめ:近くて遠い、択捉島

一枚の衛星画像から始めたつもりが、書き終えてみれば江戸時代の標柱から現代のミサイル配備まで、230年近い時間を扱う記事になった。

高田屋嘉兵衛が命がけで切り拓いた航路。真珠湾攻撃に向かう艦隊が集結した入江。ポツダム宣言受諾からわずか2週間で上陸してきたソ連軍。故郷を追われた1万7千人。冷戦下で師団司令部が置かれた基地。そして今も更新され続ける最新鋭のミサイルシステム。どの時代を切り取っても、択捉島は日本とロシア(ソ連)の関係の、いちばん緊張した場所であり続けてきた。

北海道の根室からわずか約73kmしか離れていない、日本の目と鼻の先にある島。だが、その距離の近さと、実際に行き来できるかどうかは、まったく別の問題だ。近くて遠い。そう呼ぶしかない島が、今もそこにある。

次回は国後島の鳥瞰図を予定している。

データ・出典

※統計・部隊配備の状況はいずれも2026年9月時点で確認できた情報に基づく。ロシア軍の配備状況は今後も変化しうる。